酒飲み話

 相方の三輪“カオスフレア”清宗と打ち合わせがてら家でだらだらと「ファイナルファンタジーII」なぞやっておったのですが、その折りに出た会話。
フリオニール*1クラウド*2はどちらが没個性的か」

 一見するともちろんフリオニールなのですが。
 実のところクラウドだってそこまで確立した主体的な内面を持ち合わせているわけではありません。ネタバレにならん程度に話せば、そもそも彼に対してユーザーが抱いているイメージのほとんどですら、物語上の必要で築かれた虚構であることが明らかになります。
 じゃあキャラクターコンテンツとしての価値はフリオニールクラウドで等価か……てぇとそんなわけはなく、こんどの「いただきストリート」に出てくるのはクラウドなわけですよ。
 感情移入の対象としては主体的な内面は必要ない。しかし、物語を成立させ、感情移入を容易たらしめるには、一見してわかる鑑賞対象としての客体的な自我が必要であるわけです(異論多数)。

 キラ・ヤマトであるとかデスラー総統であるとか、俗悪映画の主人公はだいたいそういう内面を持ちます。というか、持っていません(ヤマトに到っては、登場人物の誰ひとり主体的な自我を持ちません。*3

 つまり、コンテンツとして末永く利用できるビジネスとしてのキャラクターは能で言うシテであり、能の主体が能舞台に降りる無形の神であるごとく、ゲームやアニメにおける萌えや金儲けの源泉、主体たるものはあくまで世界、たとえば宇宙戦艦ヤマトであって古代守ではないのではないか。
 現に、ツノが二本で目が二つさえあれば、トミノでなかろうが宇宙世紀でなかろうがガンダムはオモシレェわけで。
 しかし主体と客体を本質的に分かつものは存在しないわけで(異論無数)、そうなると映像を映像として、あるいはゲームをゲームとして存在せしめている力とはなんなのか? あるいはそれが押井が問うているものではないのか? とかなんとか。

 小難しい話を書いて人から尊敬されようとしているのに、出てくるのがデスラー総統であたくしが自分の小物ぶりに絶望するという、そういうお話でした。*4

*1:FFIIの主人公

*2:FFVIIの主人公

*3:そこがヤマトの魅力ですが

*4:けっして総統閣下が小物だと言うわけではなく