日本人感性におけるクトゥルフ
魚蹴さん経由で。
あたくしもちょっとつらつら考えてみました。
(注、以降の内容は表現として青少年に対して刺激の強いものが含まれています)
■不真面目編 HPLの恐怖はとうの昔に価値を失っている。西部の片田舎で一発の原子爆弾が炸裂し、二つの街が灰になり、南大西洋が核実験でボコボコになり、冷戦を経験した今、科学だのキリスト教の絶対だのが崩壊しても誰も驚かない。大統領が発狂したら世界が滅ぶ。それだけだ。オールオーバー。 異人の恐怖にしてもそうだ。ホロコースト、ポル・ポット、ユーゴスラヴィア。世界はもう白人のものではなくなった。といってアジア人のものでもない。誰の物でもなく、ごたまんとした人間のエゴと民族対立と適当な融和性とが地球を動かしている。今更レッド・フック街でもあるまい。 クトゥルフが既存信仰によらない絶対的な神だ、というのも怪しい。文化人類学的に見れば、ザトースとシュブ・ニグラスとニャルラトテップなど、人間がたびたび考えてきた神なる存在のエピゴーネンだ。すでに彼らを実在の神性と見なしているオカルティストとニューエイジャーがどれだけいるよ? そう、ダーレスこそが先を行っていたのだ。 誤解を承知で言えばHPLは「ウルトラQ」と「ゴジラ」の先駆者なのだ。 そして彼の産み出した漠然とした不安は百年足らずの時を経て共有され、他のあらゆる神がそうであるように、資本主義の中で「強いモンスター」に成り果てた。(だがそれでもムングはムングであり、キブはキブである。讃えよ!) かくして、クトゥルフ神話は今や「恐怖する記号」としてのみTRPGに登場していると言ってもよい。「恐怖だからSANが下がる」のではなく、「SANが下がる」ことに我々は恐怖しているのである。たとえそれが空飛ぶコンドームでも、SANが「1D10/1D100」下がるなら、それは宇宙的恐怖なのだ。 思えばHPLは幸福な時代に生き、死んだ人であるやもしれない。
■真面目編 HPLの恐怖は価値を失ってなどいない。断じて言う。彼の作品は現代でもそして未来でも価値を持つであろう。 それは触手とHRである。