今日(こんにち)の抱負

9.11以後の現代社会において我々がコンテンポラリーについてまず考えねばならないのは、当然ながらグローバリズムの限界とそれをいかにして超克するかである。ケン・セント・アンドレの著作に見るまでもなく世界は不合理かつ不平等であり、我々はそれに対して正面から確固たる姿勢において取り組まねばならないことは、グレッグ・スタフォードの神話論をひもとくまでもなく、すでに柳川房彦によって我々の眼前にあると言ってよいだろう。
かつてアンドリュー・グリーンバーグマーク・レイン・ハーゲンによって我々の前に現出したポストモダン的文学の命題は、押井守富野由悠季の強い影響を受けた天才、すなわちデビッド・L・パルヴァーとジェス・ヘイニグによってますますその重要性を増していると言ってよい。ヘルマン・ヘッセの『ダミアン』に見るがごとく、我々は常に男と女、聖と俗、秩序と混沌、善と悪、チャラーナとアローイ、サイバトロンとデストロンの境界線にあって、そのどちらでもない選択を、みずからの意志でなさねばならないのである。フォン・ノイマンから始まりグレッグ・コスティキャンに結実するゲーム理論こそは我々の聖典であり、また超克すべきグレートマザーである。読者よ、D&D新和から提供されたときそれが箱に入っていたことを記憶せよ!
すなわち我々がアバンギャルドな現代を脱構築し、人類が炉端の昔語りより受け継いできた物語なるヌエ的存在を四方田犬彦的に定義せんと欲するならば、そこに哲学的葛藤、ないしは文学的懊悩が必要不可欠であることはもはや論を待たない。そうでなければ一体どうして我々はハイデッガーショーペンハウアーより井上純弌を見いだし、日本とアメリカの相克が生み出したルルーシュが必然として誕生させしめた一連のエピゴーネンについて語ることができるであろうか。デリダが着目したエクリチュールこそはまさに我々がフッサールを批判的に捕らえつつグラマトロジー的なルールブックを獲得せしめんとする過程にあって必要不可欠なイデアであり、そこにパロールが加わったことはまさに我々の得た福音であったと言えるだろう(読者よ、我が文章の中に論証不可能な逆説的言辞を発見し、我を批判せよ)。
さりながらカイロスは永遠なれどもクロノスは永遠ならず、イデア的に我々が所有するそれはアブラクサスの手にあれどもロゴスはなどてデミウルゴスの掌上にあり、いかにしてこれを対峙すべきかについてはまさに栗手軽的懊悩と言えるであろう。


ええ、要約いたしますと、TRPG*1ってえのはものすごくとってもひじょうにすばらしく*2面白いものだなあ、とそういうことが言いたいわけです。
ルールブックを買っていただいて、ちょっとの時間とご友人を用意して、さあ遊ぶぞ、と言うと楽しく遊べる。シナリオであれルールであれ、出来るだけ手間はなく、その上で奥深く。皆さんにその日一日を楽しく遊んでいただけるようなゲーム。
そのようなものでありたい、そして皆さまにデザイナーが考えている以上の面白さを見つけて頂きたい。
そんな心構えで、今日も一日頑張って行きたいと思います。
何を言ってるのかまるでわからなくなって参りましたが、実を申しますとあたくしにもさっぱりわかりません。*3

*1:自分が関わってるのも、そうでないのも

*2:オバQ

*3:小難しい言葉をひねり回して見ても、決して書いてるヤツの頭がよくなるわけではないという好例でございます。他山の石となすってください