文学的に懊悩してみる

いやまぁ、要するに部屋にこもってエロゲの原稿を書いていれば、人間は別に冗談事でなく性欲をもてあますよな、という当然の話で。この主題を、古今の文学者は懊悩に仕上げてきたわけですが。このへんを宮崎駿に言わせると「そんなものはフィルムで昇華しろ」ってことになるんでしょうが。*1

どのように転げても、男女の別を問わず人間はその性的嗜好によらず、多かれ少なかれセクシャルな面をその側面に備えています。ギリシャ風に言えばポルノグラフィアな人間像なわけでありまして。「死んだ後に猥褻小説の一つも出てこないといけないよ」って言ったのは佐藤紅緑*2だったかしら。

というか、ヘンリー・ミラー永井荷風ゲーテ隆慶一郎松本零士池波正太郎谷崎潤一郎小野寺浩二で育った身としては、*3

*1:もっともあの人の愛人の山ぁ有名らしいですが

*2:サトウハチロー氏のお父上。「乱れ雲」の著者

*3:他にもいろいろあるけど割愛)青春期における性欲の懊悩こそがですね、作品を創造する原動力である、とさえ言い切れると思うのです。一切性欲についてこれは言及すべきでない、というのははなはだヴィクトリア的な道徳律で、そういうのがお好きな人てぇのはそういう英文学がお好きなんでしょうか。「我が秘密の生涯」とか「愛欲のロマンス」とか。雑誌だとザ・パールあたり。 「猥褻だと判断するその心が猥褻だ」というのはサド裁判でしたっけ。 あ、でもあれか。そもそも文学に著者の人間性や感情などを反映すべきではなく、言語をただ言語としてのみ論理純化するというポストモダン文学の視点に立てば、確かに性的要素を反映した文芸というのは唾棄すべきものなのかもしれません。ふむ。 とまぁこのように、小人は閑居して不善を為すわけです。 概ねにおいてまとまりのない思考を書き連ねても意味のある文章は生まれない。読者なくして文章はありえないわけで、意図もとりとめもない文章を書いたところで論理にはなりません。それこそチラシの裏に書いてればいいわけで。かのトミノ監督も言っております。「そんなヒマにカツオ一本釣り漁に出ろ!」と。 ええ、何が言いたいかというと、懊悩などしていてもまったく面白くないことがわかりました、ここまで付き合ってくださって非常に申し訳ないんですがオチはありません。ごめんなさい。((別に田山花袋島崎藤村に怨みがあるわけではありません