インテリでありたい

インテリゲンツィアとして人から尊敬されたいという願望は、多かれ少なかれ人にはあるであろう。少なくとも私にはある。
高度な文芸評論の知識を持ち出して、たとえばさらっと、「“カサブランカ”に描かれた憂鬱はハイデッガー的というよりは、むしろサルトル的なしなやかさを持っているように思うんだ。ハンフリー・ボガードイングリッド・バーグマンに対して示す不器用な優しさは、我々が資本主義社会において失いつつあるロマン主義的なものへの哀惜と、それがコマーシャリズムによって汚染されていく過程のメタファーでしょう。ポストモダンにおいてあらゆる愛はラベリングされる、っていうのはデリダエクリチュールだったよね。レヴィナスだったかな。まあどっちもフランス人だから同じようなもんだね」と、blogに書いたりワインを片手にうんちくを並べられるような青年学士と見られたい、という俗物的な見栄は大いにある。


だが、これが実際にやろうとするとなかなか難しい。やってみるとこうである。「このトンカツが何故美味いかと言えばさ、要するに実存としてのコロモがあるからなんだよね。うん。ファーザーも言ってるけど、トンカツさえ食べてれば幸せ。あと突起物。東海林さだお風に言うなら、これでソースとビールがあれば無敵ってことになる。しかしだね、キミ、野比のび太を引用するなら、“なぜだ、なぜトンカツは食べるとなくなるのだ”ということになる。これこそ実存の矛盾だよ。押井守がパトローネについて言ってるのと同じでさ、トンカツという真実は光に照らされた瞬間消えるわけだ。これはつまりだね、我々の求める真実が闇の中にこそあるというボゴミル派の教義と一致するとは思わないか。このコロモで必死に身を覆うトンカツはすなわち男根であると同時に女陰で、大地と天空を同時に宿しているんだよ。第一物質だ。つまりグノーシスを持ち出すまでもなく言ってみればこれはウテナに対するアンシーであり、死のメタファー……」「小太刀、トンカツ冷めるで」という会話に突入するのである。


インテリへの道は遠い。