天下繚乱・二十の話「パイロット版小説〜時空破断・前夜」

 それは、まったくの異形であった。
 目は満月のごとくに丸く、伸びた牙はイノシシのようで、筋肉ときたら羆よりも隆々としていた。仕立てのよい絹の羽織は中からはじけ飛び、赤銅色の肌がむき出しになっていた。
 その巨体が長さ三尺の大太刀を構える姿は、まるで剣客が小太刀でも構えているようで、見る者の遠近感を狂わせることおびただしかった。
 妖異、である。
 人に、この世のケガレと怨念とが取り憑いた、“羅刹”と呼ばれる妖異であった。
(どこから打ち込むか)
 これに立ち向かう若武者、鷹羽十郎太、手には先祖伝来の鬼丸国綱、正眼の構えで妖異をにらみ据えるが、いっかな隙がない。
 つい先ほどまで酒色をむさぼり怠惰のうちにあった悪代官とは思えぬ変貌ぶりに、旅の坊主が奴を悪鬼羅刹、と呼んだ理由がようやくに腑に落ちた。
 びゅう、と大気を裂いて、予備動作もなく大太刀が無造作に振り下ろされる。大根でも切るような素人剣法だったが、果たせるかな、同じ太刀筋でも人と羅刹では夜露と雨ほどに勢いが違う。
「ぐっ」
 体をさばいていなしたつもりが、勢いを殺しきれずに、二、三歩、たたらを踏んだ。
 万事休すか――――。
 刹那、びょう、と夜闇を裂いて、一本の楊枝が代官の、否、鬼のまなこに突き刺さった。
 ぐああ、とおぞましい叫び声があがり、羅刹の動きが、止まる。
「今ですぜ、お若けえの」
 闇の中から、宿場で会った渡世人の凄みを帯びた笑みと、縞の外套がゆらめいて消えた。奇襲をするに油断も隙もなく、毫もそれを誇るでもない。
(まったく、憎いふるまい――――)
 で、あった。
 むろん、この隙を見逃す十郎太ではない。
 南無三宝、守り給えと、父母神仏に祈りながら体勢を立て直し、その動きのままに裂帛の一撃を繰り出す。
 一刀両断、その覚悟である。
(やれるか、否、やらねばならぬ)
 羅刹の鋼鉄のような皮膚を、鬼丸国綱の刃が切り開く。その奥の、不快な肉と骨の感触。それを、十郎太は体ごとたたきつけるようにして、斬る。横腹から胸にかけて、凄絶な傷が開く。
 汚れた血しぶきが、ふすまを紅く染める。
(まだだ)
 人ならば、死ぬであろう。
 だが、奴は羅刹だ。
 妖異の眷属、否、妖異そのものに墜ちた、外道。
 そして妖異は、人ではない。
 人でないものは、人でないように殺さねばならぬ。それが、本能でわかった。
 切り上げた刀を中空で返し、切っ先をえぐり込むようにして、先の傷に突き立てて、心の臓をつらぬく。
 命の途絶える、手応えがあった。
「御坊!」
「応!」
 控えていた老僧が手早く九字を斬ると、果たして妖異の全身から吹き出した邪気は、その手にした石にすべて吸い込まれた。後には、代官の肥満した屍が転がっているだけだ。羅刹の面影は、もはやない。
「本当に、これが、妖異なのか……我々は、幻でも見ていたのではないか」
「かもしれませんね」
 じゃら、と代官の懐から取り出した小判をもてあそぶようにして、あの渡世人は薄く笑った。
「まあ、山吹色のこいつのせいで鬼になるやつぁ、今日日珍しくねえこってす。それを妖異と呼ぶか、外道と呼ぶか――――そこは、ありていに言えば趣味でござんしょう」
 ためらいなく、渡世人は小判を懐に入れた。それがこの男の、英傑としての流儀なのだろう。十郎太は、とがめようとは思わなかった。この男ならば、金を生かして使うだろう、代官に搾り取られた人々のために何かをするだろう。そうも思った。自分には、できないことだ。
「そうだな……」
 刀の血脂をぬぐって、十郎太は息をついた。人を斬ったのも、妖異を斬ったのも初めてだった。
「後の始末はご老公にお任せいたしましょう。これが最後の妖異とも思えない……」
 雨は、激しくなっていた。